コラム
2025年6月30日
人生という名の脚本
西日本は早々に梅雨が明けてしまったようで、連日暑い日が続いています。それでも朝や夕方はまだマシなので、自転車での通勤がまだ耐えられる状態です。夏の夜ってなんだか毎日がお祭りの前日のような、わくわくする匂いがしませんか。私は夏の夜のその感じが好きです。
こちらのカウンセリングルームを始めて、10月には3年になります。ありがたいことにカウンセリングのご希望をいただくことが増えて、かつて「こうなっていたいなあ」と思っていたことは叶いました。ですが人というものはないものねだりで、何かが叶うと「それだけでは足りない」「もっとこうでないと」などと考えるようになります。
カウンセリングルームを始めるよりもっと前、10年前の私は、今後自分はどう生きていくのかと悶々としていました。そんな中である時急に「そうだ、臨床心理士をもう一回目指そう」という考えが降ってきて、社会人予備校の門を叩いたのが38才の秋。その頃の私は大学院の試験に受かることが目標で、その先の臨床心理士の試験もまだ夢のようでした。その試験にも5年前に合格して、その時点でも、かつての私からするととんでもなくすごいことだったはずなのに、それはもう「そうでなければならないこと」になっていて、受かった喜びよりも、もう気持ちはその先に行っていたと思います。その資格で何ができるか、私は何がしたいのか、と。
これは私の癖なのだろうと思います。私の人生という名の脚本には、「もっと上を目指せ」と書いてあるのではないだろうか。
私の人生にとって、私は脚本家であると同時に監督でもあり演者でもあるはずです。私という脚本家が「私はもっと上を目指す」と書いた時、演者である私はなんと考えるのでしょうか。「えーまた?この前もそうだったじゃん。努力するのも美しいけど、今ここでしか見えない景色をしばらく楽しんだっていいんじゃないの。いつも人にはそう言ってるじゃない」などと言うかもしれない。監督なら、「ずっと登りだと場面の緩急がないよね」とでも言うかもしれない。でも結局は、どんなに脚本家が台詞を書いていようと、人生という舞台に上がった演者の私のアドリブを止められるわけではないのです。最終的な決定権は、演者にあるのだ。監督の私が、それを面白いと思う限りは。
さあ、私はどうしたいのだろう。脚本家の言う通り、もっともっと、足りない足りないと上を目指す?それとも、そんなのいらない、私は今のままで十分いいんだ、と開き直る?はたまた私の人生に客演してくれている他者に助言を仰ごうか。
もっと先を目指すことで得られるものもあるだろう、でもそうすることで目に入っていないこともきっとある。私はそれに目を向け、磨いて光らせ、眺めることも楽しみたいのだ。そうしている内に、気づけばこんなところまで来ていた、なんてのがきっと理想なのだろう。
できる限りは、嬉しいシーンも悲しいシーンもひっくるめて、楽しくこの人生を演じていたい。だって、この舞台はいつか終わるから。
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