コラム
2025年3月10日
あの町から遠く離れても
私が生まれて18才まで暮らした町は、海と山に囲まれた城下町で、男性労働者の町だった。通っていた小学校の裏は飲み屋街、通っていた幼稚園と商店街の間にはピンク映画を上映する映画館があった。国道沿いに風俗があって呼び込みの男性が立っていた。家の近所には、夜中にやっている保育所があった。至る所にパチンコ屋があり、競馬場もあった。数年前に新しく映画館ができたと聞いて行ってみたら、広々とした建物に半分映画館半分パチンコ屋という作りで、幻滅した。後にピンク映画館はミニシアター系の映画館に変わり、表だって風俗の呼び込みもなくなったが、そこから離れてかれこれ30年ほど経って、私は故郷に帰りたいとは露ほども思わない。
そんな町は当たり前に男尊女卑だ。痴漢は吐いて捨てるほどいたし、おそらくは男性同士の度胸試しに、通りすがりに卑猥な言葉を投げつけてくる男もいた。家で男が家事をすることなどあるはずもない。女性達はそれらに対して決して肯定的ではなかっただろうが、「男の人はそういうものだ」と諦めていたと思う。そして自分たちの夫や父親を堕落させる「飲み屋の女」的な女性を自分たちとは分断していた。それは結局男性優位社会における「女性という奴隷」の中の些細な優劣(と思っているもの)にすぎないのに。
今私が住んでいる場所の周辺にはそういった店もほとんどなければ広告もなく、とりあえずは平穏に暮らすことができる。でもじゃあ男尊女卑ではないかというとそんなことはなく、目立った分かりやすいものがないというだけで、ただ日常にステルス化しているのだった。夫婦とか家族とか仕事などという形で。あまりにもそれは当たり前のこと過ぎて、差別だとも感じられない。そういうものだと思うだけ。
飲み屋とパチンコ屋がひしめく町から出ても、結局変わらないのである。
3月8日は国際女性デーだった。新聞もテレビもさらっと触れて、分かったような顔をして、終わり。その新聞もテレビも、相変わらず意志決定層は男性ばかりだ。最近「我が社はSDGsに取り組んでいます!」という会社が増えたが、その会社の取締役が男性ばかりなのはちゃんちゃらおかしい。「女性のもの」だったはずの行進も「女性差別をやめろ」とはコールできないそうだ。そして流れてくるニュースは「子宮移植の臨床研究が承認」・・・。アホらしい。どこまで行ってもどこに逃げてもいつまでもついてくる。「女は男を性的にも精神的にも喜ばせ、かつ優秀で有能な子どもを産み育てなければならない」という、グロテスクで、気持ちの悪い、何か。
ああくだらないくだらない。結局私はあの町から抜け出せてなぞいないのだ。国際女性デーなんて言って、求められるのは結局「男性のことも考えられる優しい女性であること」なのだ。そうしなければ権利を与えていただけないのだ。それが本来の女性らしさなのだ。
うるせえうるせえ。お前らみんなあのピンク映画館と一緒に燃えちまえ。
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