コラム
2025年1月27日
「善良なはず」の私たち
気が付けば、もう1月も終わりに近づいてきました。 毎年この1月から3月にかけての進みの早さには驚きます。この時期は入学卒業や引っ越しなど、変化の大きい3月4月の前段階にあたる時期なので、気が急いたり、やることや考えることが多くあり、余計に早く感じるのかもしれません。
こちら兵庫県では、去年の県知事選からこっち、非常に混沌とした状態が続いています。それ以前からあったであろう問題とはまた異なる、選挙に端を発した、選挙の在り方やSNSの在り方について考えさせられるような諸問題は、正直目を覆いたくなるような状態です。
私は、「大人がやることは子どももやる」と思っています。大人が差別をしていれば子どももするし、大人の世界にいじめがあれば子どももします。それらは子どもにしか表れない、子どもの世界特有のものではなく、大人がしていることのコピーに過ぎない。そう思います。ですので、よく「子どものSNSの使い方が危険」などという話を聞くと、果たして大人がそんなに自制的にSNSを使えているのだろうか、と思うのです。コロナ禍の際にはSNS上で多くのデマが流れ、多くの人がそれに流されたり他者を攻撃したりしたことは記憶に新しいと思います。それ以外にも「推し活」という名の高額な金銭のやり取りや、性暴力を肯定するような投稿、無断転載、差別的な言動など、これらは全て大人がやっていることです。
ですから、子どもに何かを伝えるために必要なことは、子どもに「こうするな」と言うよりも前に、大人としての自分がどうするか、だと思うのです。まず自分が、SNSの不確かな言動に流されていないか、悪質なものを見て見ぬふりしていないか、批判と相手を貶めることとの区別がついているか、そういったことに自覚的になることが、次世代の行動にもつながってくるのです。
その一方で、大人だってやっていいことはあります。「明日の仕事めんどくさいよー」と言ってもいいし、だらだらしたい時はしたっていい。明日でいいことは今日やらないとか、そんなことだってあってもいい。そういった、弱音を吐いてもいいとか、自分を大事にしていいとか、そういうことも自分の行動を通して子どもに伝えられたらいいと思います。
まず自身の行動が自信を持って子どもの前でも示せることなのか、内省的になってほしいと思います。歴史上の独裁者を支えたのは、「どこにでもいる善良な一市民」です。自身がその「独裁者を支える善良な市民」にならないためにどうあるのか。それを考えることが、現在だけでなく、10年後20年後、さらにその先の社会をも作るのです。
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