コラム
2025年1月6日
年始に家族のあり方を思う
新年明けましておめでとうございます。今年は少し長めに冬期休業を取らせていただきましたので、本日(1月6日)よりの開室となりました。少し長めにお休みがあるといつも「読めてない本を読むぞ!」と積ん読の山を前に意気込んだりするのですが、相変わらず大して読めませんでした。そこまで含めてのお正月とでも言いましょうか。
年末年始は帰省や挨拶まわりなど家族関連の事柄も多いかと思います。昨今は少子化もあって、殊更に「家族の素晴らしさ」のようなものを提示されているように思います。家族団らんが唯一無二の幸せのあり方であるかのように。団塊ジュニア世代かつ就職氷河期世代の私からすると、ケッという感じです。
そりゃもちろん、家族同士で慈しみ合うことができるならそれはとても素晴らしいことでしょう。ですが、ここまでの歴史はそう思わせるものだったでしょうか。憲法が変わって男女は平等になるかと思いきや全くそんなこともなく、高度経済成長はその影で多くの女性を無償再生産労働に従事させてきたことで成り立ってきたのに、それがその成長に必要なものであるとの評価もしなかった。団塊ジュニア世代として生まれた娘達は、母親達のため息の受け皿となった。子どもを養育することや教育を受けさせることは親側の義務ですが、それに子どもは感謝することを求められた。個人の要望よりも、「和をもって尊しとなす」と教えられた。「家族はすばらしい」と信じられればどんなにいいでしょう。この国のあり方は、未だにその形を提示するだけで、中身が伴っていないように思います。
親子であっても他人です。それは血縁の意味ではなく、「自分以外の人間である」という意味です。家族の考えていることが分かるような気がするのは、単に他の人より接している時間が長く傾向を知る機会が多いというだけのことです。自分以外の人間には自分と異なる考えがあり、思いがあり、異なる幸せがある。たったそれだけの当たり前のことが、家族になると分からなくなってしまう。それが家族の悲しさでありわずらわしさだと思います。
幸せであることの必要条件は家族ではありません。それがある幸せもあればそうでない幸せもある。そしてそれらを叶えられるようにすることが国の仕事であって、決して少子化対策で結婚を勧めることではありません。
誰かとともにあることも一人でいることも、制度としての結婚という形をとることもそうでないことも、どんな名字を名乗るかも、誰もが自由に選べて責任が持てる。そんな社会になることを改めて望む年始です。
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