コラム
2024年5月27日
「置かれた場所で咲きなさい」とは言うけれど
五月ももう最後の週を迎え、あじさいの花が開く季節になりました。最近はかつてのように四季を楽しむ暇も無く、すごく寒い日とすごく暑い日が交互にやってきたりして、過ごしやすいと感じる時期は年々短くなっているように感じます。もうすぐ梅雨がやってきて、それが過ぎるとまたあの猛暑がやってくるのかと思うと、今から空恐ろしいような気もします。
外を出歩くのが危険な暑さなんて、いつ頃から起こり始めたのでしょう。毎日を過ごしていると、いつしかそれが当たり前になって、いつ頃からこうなったのか、もう思い出すこともできません。気候だけではなく、私たちを取り巻く色々なことも、いつからそうなったのか分からず、気づいたらそうなっていた、ということが多くあるように思います。どんな恐ろしいことも、その最中にいる時にはそうなっていることに気づかず、気づいたときにはもう取り返しがつかない。そんなことがあるでしょう。「なぜ防げなかったのか」と後から言われる事件や事故、もしくは国家間の紛争など。
それらのことは、急に起こるのではありません。何の危険もないような顔をして近づき、慣れさせ、麻痺させ、少しずつ蝕んでいくのです。それを後から「こうすれば良かったのに」と言うのは簡単です。それができていればそもそも起こっていないのです。
ならどうすればいいのか?何もかも手遅れなのか?そう感じることもあります。それでも、個人が集まって社会を形成している以上、そうではないと信じたい。何か自分にもできることがあると。
その方法の一つとして、「小さな違和感を大事にする」というのがあると思います。「え?」とか「どうして?」といった、ふとした違和感には、自分の気持ち「嫌だ」や「怖い」が表れています。それらを感じるものから距離を取ることは大切です。もちろんそうできない時も大いにあると思いますので、行政や関連機関によるアウトリーチが重要になってくるでしょう。
過酷な環境に人は慣れようとし、その中でどうするかを考えようとします。それは人の姿として美しい時もありますが、その環境自体がおかしい時、「あなたががんばる必要はないよ」と思います。「変わるべきはあなたではなく環境である」と。でもなかなか環境は変わらない。歯がゆい思いです。多くの人の小さな違和感がいつか大きなうねりとなって、環境を変える力になる、自分もその一つとなる。そうでありたいと思いながら過ごす日々です。
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